football diary index
February 10, 2000 小川岳文のサッカーコラム(第3回)
  • 日本サッカーの行方

    サッカーが日本においてメジャーになって8年ほど経ち、海外で活躍する選手が出たり、ワールドカップに代表が出場するなど、日本のサッカーの発展は目覚しい。しかしここ最近ドメスティックな充実振りとは裏腹に、代表チームの成績は今ひとつだ。

    自分が前回のコラムにも書いたが、対戦する国やその選手との背景(コンテキスト)の違いがやはり決定的に大きいと思う。それは日本人がコンテキストを持っていない、生きてきたアリバイがないというわけではなく、その自分自身を見つめる、振り返る視点がずれている、(その為肝心なところでの判断が鈍ってしまう。)技術や監督どうこうではなく、まず個人が何の為にサッカーをしているのか、そしてその次に自分が代表選手としてプレーしているこの日本という国はなんなんだ、ということがハッキリしていないというところに問題があるように思う。トルシェ監督の進退問題も加熱しているが、彼の言い分もかなり的を得ていると思う。協会も含めた根本的な構造の改革が必要な気がする。グランドやチームレベルでのプロ化はJリーグではかなり進んでいるが、そこを引っ張る協会が、自分たちの保身や面子だけで重要事項の決定をしていたら、いつまでたっても日本のサッカーは強くならない。

    今必要なのは、サッカーにかかわるすべての人が、日本という国がそして個人がどの方向に向かうのか、それを全体に照らし合わせた上で自主的な意志のもとに探り出すこと。具体的には、この国そして世界ががどのような文化を持っていて、どういう歴史的背景の元に今日があるのかを検証し、その背景に自分自身を照らし合わせ、尚且つそれを超えてゆくようにすることが大切な気がする。

    自分のいる位置、相手のいる位置、時間、自分のコンディションなどを的確に判断し自分のプレーを自らの意志で決定してゆく、これがサッカー選手にグランド上で求められる条件だと思うが、大切なことは、日本サッカーにかかわる人が同じような意思決定方法のもとにそこにいるかということだ。

    これはあくまでも個人的な視点であることを前提として、現在の日本の位置、サッカーとは、という点についての解釈を述べさせていただく。

  • まず日本という国。

    近代以降の日本は東洋文化の最終地点であると共に、西洋文化の東洋への入り口でもある位置にある。東洋文化というのは簡単に言ってしまえば、物事を一元的に捉える方向性を持ち、そこに向かうことを信条とする。俗に言う悟りというものは万物、宇宙との一体、主体客体のない世界、を感知することで、本来は人はその状態に至るために祈り修行する。西洋物質文化はその逆で徹底的に物事に解釈を求め、その先に森羅万象を理解しようとする。科学、物理の発展などはこの典型的な例であろう。マクロ的な視点からアプローチするのか、ミクロ的な視点からアプローチするのかの違いとも言えよう。

    このような両文化の狭間において、戦前までは和洋折衷などの何とも言えない妖艶な怪しさを持っていたと思う。光と影、両面を併せ持つこのようなものに自分はたまらなく惹かれる。しかし戦後は敗戦によって日本における東洋的な部分に西洋的なものを無条件に染み込ませ、被せて行くという道を日本は取らざる終えなくなっていった。戦勝国のアメリカに国の軍事部分を任せ、いわば去勢されたような状態で日本はがむしゃらに働いた。また保護貿易政策、安全保障条約などの制度化のもとで日本は対等な立場で世界と向き合う機会もなく、また歴史の本質に触れることのできない教育のもとに歪んだリアリティ−のもとに進んできた。我々は日本人のアイデンティティーなど考える暇も、またその機会もなく最近まで突き進んできたと思う。

    そしてバブル崩壊、阪神淡路大震災、オウム真理教事件などによって今まで貼られていたフィルターが剥がれ落ち、少しずつ現実が見え始めてきた。

    そして今日。高い失業率、高齢化、巨額の財政赤字、猟奇的犯罪の多発、などTVをまわすとうんざりするようなニュースばかりだ。また先日サウジアラビアにおける原油採掘件の期限切れとその更新の失敗によるエネルギー枯渇の深刻化などニュースもあり、そろそろかなりきてるなというう感じがする。冷静に見ると日本はかなりやばいと思う。そしてその深刻な状況は加速度をまして進んでいると思う。

  • 世界は

    冷戦の崩壊似よって共産主義対民主主義という構造から,民族主義,特定の宗教対アメリカ型資本主義という構造に変わってきた。アメリカはコンピュータの普及と,地域の平和維持を大儀にした軍事的介入によってその影響力を確実に強めている。最近モンゴルの平原にアメリカの政党の活動員が足を運んで民主的な選挙の方法を普及させようとしているという記事を新聞で読んだ。

    またグレートジャーニーと言うTV番組でモンゴルのゲルに住む遊牧民の少女に馬をもらいそのお礼に何が欲しいかと訪ねたら、コンピューターが欲しいと言っていた。世界は今、その地域的特性にどうアメリカ的普遍性を適応させてゆくか、という葛藤で動いていると思う。

  • サッカーとは。

    最近日本語の辞書で「遊ぶ」という言葉の語源を調べる機会があった。語源には様々な説があるが、その中に(あそぶ=あし+ぶ)つまり、足を(あるいは足で)するというものがあった。手というのは何か作業をし、その作業は生活というものを支えているつまり仕事だ。足というのは普段の生活では立つ、体を支えるなどの基本的な人間の動作、手の作業を支えてはいるが、足そのものが作業をすることはあまりない。

    遊ぶ(あしぶ)というのは、そういった現実の生活の仕事を離れ、生活以外のことをするということだろう。手ではなく足でするというのも、そういった反現実の生活の仕事、という意味があるような気がする。

    足でするものといえば…サッカーである。サッカー,鞠蹴りは本来は遊びである。それゆえにこれだけ世界中の人がはまっているのであろう。

    最近アラスカを旅する機会があり、氷に包まれた町を訪れたが,そこにもサッカーゴールがあった。またアラスカのエスキモーの伝説に、オーロラは死んだ人の魂があの世でサッカーをしている姿だ、というものがあった。サッカーは人間が実生活の束縛から解放され,酒を飲んだり,歌を歌ったり,踊ったりするのと同様、根源的な遊びの欲求を満たすものだと思う。

  • 今日のサッカー

    このようにサッカーが純粋な遊びである地域もあれば,西ヨーロッパ諸国の様に,サッカーが地域戦争である地域もあり、また南米の様に生きる糧としている地域もある。またその集客力を見込んだ大企業によるスポンサーシップなども手伝い、一地域のクラブが世界的にサポーターを集めるなど、メディア(媒体)としての要素も強い。マンチェスターなどはその典型的な例だ。

    またカナダで出会ったフランスのストラスブール出身の若者が,最近僕の街のチーム(ストラスブール)のスポンサーにアメリカのマコーミック社がついて、チーム運営にまで口を出してきてつまらないチームになってしまった、と言っていた。今日サッカーは経済的効果を狙った大企業主導の国際的な興業イベントと言う側面もある。

    我々の日本はこのような状況の中どこへ行くのか

    続きは次回へ。(小川 岳文)