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1999
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| January 12, 99 |
ヴェルディ転落の構図(その二) |
| Jリーグに入る以前の読売クラブは、企業サッカー全盛の日本リーグにあって、まったく異色の存在だった。何が違うのかというと、そのプレースタイルはもちろんだが、日本に学校でも実業団でもないクラブという組織形態を持ち込んでいた点だ。本当のクラブは、その地域の同好の士が集まったチームが基本だ。読売クラブも、そもそもそういった同好の士から始まった。それと、トップチームの下に、ジュニア、ユース、ジュニアユースといった下部組織を持っての一貫した指導も見逃せない大きな特徴だ。トップチームの選手は、給料は少なかったが一応、サッカーでお金を貰っていた実質的なプロだった。私の知り合いで一時読売クラブでプレーしていた人がいるが、その人も当時7-8万の月給を貰ってプレーしていた。しかし、あくまで日本テレビなどがバックについてサポートしていたので本当の意味での市民クラブではなかった。実はそれが、後の凋落の一因ともなるのだが。それでも、企業チーム全盛の日本サッカー界に欧州型のクラブ組織を日本に持ち込んだという意義は大きい。 |
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個性的な日本人選手
読売クラブは、けっこう長い期間、JSLの2部に所属していた。ブラジルから来たジョージ与那城を中心にした、魅力あるプレーを見せてはいたが、その自由すぎるスタイル故に、なかなか2部で優勝するまでにはいかなかった。どちらかというと勝つサッカーというより、プレーヤー自身が楽しめるサッカーを優先していたと思う。一時、アルビレックス新潟の監督をしていたファン・バルコム氏が監督をしていた時代もあった。そうそう、桐蔭学園の監督や今年の清水商業の臨時コーチ、李国秀氏もプレーしいたことがある。李氏が指導するチームが、どれも素晴らしいサッカーをするものの、勝てないのは、こんなところに遠因があるのかもしれない。ということは、今シーズン李氏が総監督をする新生ヴェルディーもやはり勝てないのだろうか。
なんと言って与那城だけでなく、読売の日本人プレーヤー自体も他のチームの日本人選手に見られないような個人技があったのが大きな特徴だ。橋本、小見、岡元など個性的な選手が多かった。昨シーズンまで、セレッソの監督だった松木氏も16歳の高校生の時からトップチームでプレーしていた。しかし、松木は皆さんもご想像の通り、読売クラブの中ではテクニックというより、パワーで押すタイプの"異色"な選手だった。なんで、高校生からレギュラーだったのか、昔から不思議だった。しかし、ラモスが20歳そこそこで読売に来たあたりからJSL2部でも優勝を狙えるチームと成長していった。
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企業チームや日本のサッカー協会から嫌がらせを受けて成長
読売クラブは、私の記憶が正しければ、トヨタとの入れ替え戦に勝って78年にJSL1部に昇格した。当時のJSL1部は、三菱、古河、日立などの丸の内企業サッカー部が牛耳っていた。そのため、言わば学歴のない"読売クラブは異端児として、かなり"嫌がらせ"を受けていたように記憶している。しかし、たいして練習もしない?読売クラブが、その持ち前のテクニックで、"丸の内企業チーム"を翻弄するのを見るのは、とても痛快だった。攻めのスタイルにしても、"定石"である「外からえぐってゴール前にセンタリング」といった攻めより、個人技を生かしてのワンツーによる中央突破に敢えてこだわったり、見る者にとっても新鮮だった。選手たちも、サラリーマンではなく、風体もなんとなく"アウトロー"といった感じだったので、それがますます魅力となった。そんなチームだったから、"権力"サイドが良く思う訳がない。いつ日本代表に選ばれても、おかしくなかった小見や高校生でJSLプレーヤーになった戸塚など、才能溢れるのになかなか代表チームに選ばれなかった選手も多かった。そんな読売クラブもJSL末期の数年は、ラモス、カズ、武田、戸塚、都並といったプレーヤーが全盛期に入り、やはり新興の日産自動車などとともに、常勝チームの一員となった。この頃になるともう、誰もその存在ケチをつけるものはいなくなった。
(次回へ続く)
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